第14回TOKYOマイムカレッジ試演会 シアターパントマイム公演「襷」

6/3 14:00~@新大久保スタジオエヴァ

 前回玉木さんを見たのは、早稲田のせっまい小屋だったような気がする。いつだったかもう記憶が無いので、記録に頼るともう6年前らしい。ふと最近何してるかなと思い立って、連絡先もわからなくなっていたのでググると、ちょうど今回の公演の情報が出てきた。ストーカーと言わないでほしい。私は玉木紘子のファンなのだ。予約用メールアドレスにメールを入れたら、3日ぐらいしてから返事が来た。「玉木さん、この人知ってる?」「げ、なんで!?受付しないで!」というやり取りがなかったことを願いたい。

 彼女がパントマイムを始めたときは、役者のスキルを磨くための一時的な肥しのつもりなんだろうと思っていた。あれから6年、最初からか途中からかわからないけど、彼女は本気でパントマイムの表現者を目指すようになっていたことが、今日、その演技から伝わってきた。

 6人の演者がひとりずつ出てくる形式。公演を通して、音楽は流れるが役者は一言もしゃべらない。叫び声やため息のような発声もない。玉木さんは休憩挟んで後半トップの5番目。正直、前半はあんまり内容が伝わってこない人もいたりして、このままだとちょっときついな、と思ってしまっていた。玉木さんは途中、タイトルコールのかわりのショートコント的なパートで他の役者とふたりでちょっとだけ登場した。6年ぶりに見る玉木さんは輪郭が少しふっくらした以外変わりなく、懐かしい幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 休憩が終わり、暗転した会場が再び明るくなると、彼女はシンプルな上下黒い衣装を来て、舞台に正座していた。タイトルは「鏡」。鏡台の前に座った女性が、ぎこちない手付きで化粧をしていく様子だ。前半の4人とは違うレベルの演技だというのを、この時点ですでになんとなくではあるが感じられた。

 とても丁寧で伝わりやすい演技なのだが、どこか違和感があった。化粧をする様子がぎこちなさすぎるのだ。最初は子供が初めて化粧ををする様子なのかと思った。でも彼女の表情や演技からは、子供の無邪気さや荒々しさは全く感じられない。そこで彼女の視線に気付く。視線が定まらず、光の無い目が薄く開いている。盲人を演じているのでは、という推定が頭に浮かぶ。鏡台の引き出しをなぞるように探る仕草や、口紅のキャップを外したときの上下がわからないかのようなもたつきはそれを裏付けるように思われる。そう考えると、彼女の一挙手一投足が、すべて盲人の仕草をなしているように思えてくる。演技として完璧、と評価を下すより早く、ある考えが頭に浮かんでくる。

「玉木さんは本当に目が見えなくなっているのではないか?」

 6年間、彼女とは全く連絡をとっていなかったし、他の人から消息を聞くこともなかった。もし彼女になにか不幸な出来事があって、それが伝わることを拒んだ彼女が過去の友人との連絡を断っていたとしたら。それなのに、突然自分が公演をネット検索で見つけ、招かれざる観客の視線が舞台の上の彼女を突き刺しているとしたら。そうだったらどうしよう、軽い気持ちで取り返しのないことをしてしまった。切実にそう思わせる真実味が彼女の演技にはあった。舞台の上の役者を見ていて、それが本当に演技なのか、本当に見ているものは偽物なのか、わからなくなったのはこれが初めてではないだろうか。それは彼女の演技が素晴らしかったことももちろん、自分が彼女と長期間連絡を取っていなかったという個人的な事情もあるだろう。それでも、あの冷静な演技で観客にこんなことを思わせる、これは本当にすごいことだ。

 そんなことを考えるうちに、彼女は鏡台にかかる布をまくりあげ、鏡に手をつき、その中をのぞき込もうとして倒れ込む。彼女は夢を見る。

 砂浜の日差しの眩しさで目を覚ました彼女は、失っていたはずの光に気付く。すくった手からこぼれ落ちる砂の輝きに子供に返ったようにはしゃいで、走っていくと今度はバラの花と出会う。それがバラだとわかるのは、花びら一枚一枚を確かめる彼女の手付き(これに一番感動した。彼女は視覚を手に入れてなお、盲人の仕草をしている)、とげを刺して指からにじむ血さえも、彼女はその鮮やかさに感動するのだ。

 そして彼女はあらためて鏡台の前に座り、化粧をし、鏡にかかった布をまくる。繰り返される動作だが、今度は彼女の動作に探るような仕草やもたつく様子はない。見えているからだ。しかし見えているからこそ、彼女は最後、鏡と向き合うときに顔をそむけざるを得ない。それでも、彼女が初めて自分の顔と向き合おうとするところで、夢は終わる。

 感動した。役者の身振りだけで、こんなに多くのことを観客に伝えられるだろうか。ひとつひとつの仕草に、動作の意味を超えた物語としての役割が与えられ、それが見る人に意図通りに伝わっている。例えば、ファンデーションの匂いをかぐということ、バラの花の花弁を一枚ずつ確かめるということ、指先の迷い、あるいは迷いがないということ。

 そのあと、トリの演者を挟んで(足が身体から独立するというとても演劇的な主題で、本質的かつ笑えて面白かった。)、6人全員でステーキ?を食べながら泣いたり怒ったり笑ったり(玉木さんは泣き叫んでいた)する演目で終演。そしてカーテンコールで、6人を代表して挨拶をする玉木さんが、話しながらこちらを向いて微笑んだ。目が合った!絶対あれは自分のことを見て微笑んだのだ!「好きになるから!こんなの好きになるから!アイドルか!アイドルか!」と心の中で叫んだ。もう十分好きなのである。このときにようやく、盲目の人としての玉木さんが、演技だったと確信したと思う。

 6年て長い。この6年自分が生きている間、玉木さんは知らないところで違うことをしていた。他のことを、本気でがんばっていたのだ。自分も違うことをしていた。彼女ほどがんばっていただろうか。彼女ほど、なにかを手に入れただろうか。考えてしまう。

 それから、今回彼女はパントマイムの見方、面白さを教えてくれたと思う。どんなにうまい演技でも、最初の仕草だけでは何をしているかわからない。ところが、ひとたび物語や動作の意味に気付くと、遡ってすでになされた演技の意味がわかる。物語の最後で、はじめからのストーリー展開を一貫して確かめられたときは大変気持ちよく、それができなかったときは非常にもやもやする。こう書くとセリフのある演劇と大差ないと思うかもしれないが、パントマイムはクイズ番組やミステリー小説のように、その謎解きの繰り返しが楽しいのだ。もちろん、これを提供するために演じる側は、身体能力だけでなく、緻密な脚本や構成が必要になる。玉木さんの演技は、それを実現していて、単なるイミテーションを超えた、芸術としてのパントマイムを見せてくれたと思う。

 また見たいと思ったし、今度はもっと大きな作品を見てみたいと思った。また見に行きたいと思う、ストーカー認定されなければ。