サボってしまった。

ブログをほとんど1年近くサボってしまった。最後の記事は去年の7月。

そんなに長く書いてなかったかと思ったけど、書いてなかった。

いろんなことの記録を何にも残さないのはもったいないので、少しずつまた書いていきたい。

 

 来月結婚する。自分が結婚するなんて、ほんとについ最近まで考えてなかった。少なくとも学生時代は結婚は明確に悪だと考えていたし、年を取りながら友達や同僚が結婚していくのを見ていくうち、世の中と折り合いをつけるように考えは柔軟になっていったけど、それでも結婚は根深い悪しき慣習だという考えは抜けきらなかった。今でも正直言ってそう考えているところは多分に残っている。

 結婚は平等じゃない。家族とか戸籍とか、生きる上での基本的な枠組みが結婚によって形作られることで、男と女の間で、結婚する人としない人の間で、親と子どもの間で、明確な非対称が生まれ、それによって多くの人が苦しんでいて、社会全体にもいろいろな弊害が生まれている。今でも結婚はメリットよりもデメリットが多い制度だと思っている。少なくとも、よりよいシステムを現代の日本でなら十分現実的に実現できるはずだ。

 それでも結婚することを決めたのは、付き合って4年になる恋人と、これからもパートナーでいるのかどうか、という選択が、今のタイミングで結婚するかどうかの選択とほとんど同じ意味になってきたからだ。相手が結婚を望んでいた。このタイミングで仕事を長期間休むことになったこともあり、別れることを真剣に考えた。その方が相手のためにも、、、正直に言えば自分がその方が楽になると思っていた。ところが、相手の方がまったくそういう考えがないようだった。いろいろと悩んでいてくれたのは話をすれば感じていたけれど、それは自分と別れるかどうかではなく、ふたりの将来について悩んでいた。休職中もなにかと外に連れ出してくれて、その度に励ましてくれた。そんな中、ひとりで急にアメリカに旅に出て、愛想を尽かされるかと思ったけど、当時はそれを期待していた気持ちもわずかにはあった気もするけれど、まったくその気配すらなかった。これはうれしかった。ありがたかったというか。仕事を辞めることも考えていたけど、今はそのタイミングじゃないと思い、復職して、このときから具体的に結婚を考えはじめた。1年弱経って、ある程度仕事も落ち着いて来たところでプロポーズをした。相手は喜んでくれた。

 後ろめたい気持ちがある。セクシャルマイノリティのかつての友達、今ではそう呼んでいいかわからないけれど、に対して。学生の時、旅先のツアーで出会い、旅先で告白された。自分と付き合って欲しい、ということと、自分がトランスジェンダーであるということ、をだ。自分は当時恋人がいたので、断った。自分はちょうどフェミニズムジェンダースタディーズに触れ始めた頃で、その友達もいっしょに旅行に行くような親しい人に囲まれていたこともあり、気兼ねなく接していたつもりだった。告白を断るときも、特別に傷つけないように配慮したつもりだった。

 帰国してから間を開けずに2回ぐらいふたりで会ったと思う。ぎこちないデートだった。それ以来向こうからの連絡がなくなった。それから間もなく、性別適合手術の為にタイに行ったということを聞いた。ショックだった。自分が「普通に対応した」つもりになっていたことが、相手の人生に決定的な影響を与えてしまったと思った。ポジティブな気持ちで手術に向かった可能性だってある。わからないけれど、いずれにせよとても重大な決断に影響を与えてしまったと思った。

 それ以来、あの時自分はどう応えるべきだったのかと考える。手術を受けて幸せになっているだろうか、とも。セクシャルマイノリティについても普通の人よりは勉強した。自分はほぼヘテロシス男性として生きてきたけれども、自分の同性愛傾向が人より強いようにも思い、Jack'dやGrinderで何人かの相手とデートしたり、ArcHでナンパ待ちしたりした。もちろん楽しくてやってたけれど、多数派の居場所に守られているだけではいけないという意識はあった。

 今の恋人と付き合うようになってからも、結婚を考えるようになってからも、時々ぐちゃぐちゃ考えることはあった。でも、それでも結婚することを選んだんだから言い訳は出来ない。結婚なんて、そんなにたいしたことじゃない、と思っていたし、思えばいいのだけど、だとしてもこの選択をしたと言うことで、これからもぐちゃぐちゃと考え続けるんだと思う。最終的には結婚なんていうシステムが必要のない社会になればいいと思っている。でもその前に段階を踏む必要もあると思っている。婚姻平等はその過程にあっ定位プロセスだと思う。誰もが誰とでも平等に結婚できる社会を望んでいるし、その実現のためにやれることはしていきたいと思う。

 仕事のことを書いておくのは、結婚したときに自分がどういう状況だったかの記録のため。ちょうどプロポーズをする1年前、休みたいと申し出て、約4ヶ月の休暇を取った。精神科に通い、適応障害の診断書を会社に出した。たまっていた有給休暇をきれいに使い果たす形で、結局「休職」とはならなかったけど、まあ形式の問題だ。原因は今となってははっきりと直属の上司からのパワハラだと言えるけれども、当時はそこまで整理して考えることが出来なかった。つまらないことに細かく指摘を受けて、細部を気にするうちに全体がうまく回らなくなった。それに対しても怒られ、馬鹿にされ、そうかと思うと飲みに連れて行かれて励ましを受ける。なんとかがんばりますみたいなことを言って、次の日からもその繰り返し。最後の方は、たしかに心の状態が普通じゃなかったと思う。その上司が、みんなに配っていたもらい物のお菓子を、自分にだけ投げて渡すのがすごく嫌だった。

 がんばっても何にも出来ないという状況に陥ってしまい、本当にもうどうしようもなくなって、なにもうまくいかないという状況で、明らかに自分がいない方がうまくいく状況になっていた。このまま続けていても、自分にも仕事にもいいことはないと思って、休みたいと言ったのはメールでだった。12月の頭で、年内休んで年明けから出て来ればいいぐらいに思っていた。まわりからも心配されていたということはあとから知ったけれど、組合の人が声をかけに来たことはあった。その時点で普通だったら普通じゃないと気付くんだろうけど。昼休みにメールを送って、送った直後に直属の上司から呼び出されて、いつまで休むつもりなのかとか、なにが原因なのかとか、そんなようなことを聞かれた。上に書いたようなことをそのまま答えたと思う。それから、年明けの異動を考えるというようなことを言われ、それならどうか、それでも仕事を休むか、と聞かれた。自分は異動出来るなら年内ぐらい我慢する、というような気で、それなら会社に来ます、と言った。ところが、その日の午後のうちに、今度はその上の部長に別室に呼ばれて、直属の上司には以前から自分への態度について指導をしていたということなどを聞かされて、精神科に受診することを勧められるとともに、休んでいいんじゃないか、というようなニュアンスで、あらためて休職の意志を確認された。自分は今度は、ああ、休んでもいいんだ、と思って、休ませてください、と言った。思えば本当に自分で判断する能力が低下していたと思う。そこで休職が決まった。部長は少なくとも他意なく対応してくれたと思う。当時の自分にとってはそれはとてもありがたいことだった。そのあと、直属の上司がパソコンの画面に映したエクセルの表を見せてきて、中身はよく覚えてないけど、休職に至った経緯を整理したみたいなものについて、「これで間違いないね」と確認を求めてきた。そんなに変なことは書いてなかったと思ったので、自分は同意したけれども、いま思うとあれは上司が自分を守るため「だけ」にやっていた作業なんだろうなと思う。

 ともかく、その日から休職となった。その日、家に帰って、両親に仕事を休むことになったことを伝えたはずだが余り覚えていない。酒を買って帰ったらしく、今でも家に酒を買って帰ると、何かあるのではないかと身構えると父親が言っていたので、それなりに衝撃的だったらしい。その翌日に近所の精神科を受診した。学生の頃、いろんな友達がいかに強い向精神薬を飲んでいるかをほとんど自慢のように語っているのを聞いていたのを尻目に、自分は心の健康だけは問題ないなと思っていたのを思い出し、なんかこんなことになってしまったなあ、と待合室で考えていた。診察は30分ほどだっただろうか。休みに至ったいきさつは当然として、家族・親族関係や親の性格、子どもの時どんな性格だったかとか、得意教科とかを細かく聞かれたのが印象的で、「フロイトだ!」と思った。そのあと就活の時のSPI試験のような用紙を渡されて、待合室に戻されてから回答し、そのあとまた診察室に呼び戻された。

 医者からまず言われたのは、年内休みたいと言ったことに対して、最低2ヶ月は休まないと何にも変わらないよ。と言われた。それから、上司のハラスメントがあったんだろうということや、嫌だったことを無理に忘れようとしないこと、などの指摘やアドバイスがあった。そして、デスクの上に用意してあった大判の本を手に取ってこう言った、「アスペルガー症候群って聞いたことある?」。

 聞いたことはある。自分にはその傾向があるかもしれないという。SPIのような検査の結果は診断には至らないものの、希望すればちゃんと調べることが出来るそうだ。先生は手に取った本(大人のアスペルガー症候群、的なタイトルだったと思う)をパラパラと見せながら、症状や患者の体験について思い当たるところはないか、という。思い当たるところは、あった。それはもう、泣きたいぐらいに。「ああ、そうだったんだ。」と一発ですべてが解決したような気さえした。だいたい生まれつきで、遺伝によるところが大きいというような話も聞いた。

 そこで2ヶ月休職するべしと言う内容の診断書をもらって、今度は会社の産業医との面談に臨んだ。だいたい聞かれる内容は同じような感じだったが、産業医の面談は人事部の社員が同席していた。診断書には2ヶ月の休職とあったが、今度はさらにもう一ヶ月休む必要があると言われた。これが自分の症状との兼ね合いなのかはよくわからない。休みがもう一ヶ月伸びて、正直よかったと思っていた。そこで、自分は精神科でアスペルガーの傾向があると言われたと申告した。産業医は、自分とは話している限りその傾向は感じないとのことや、発達障害は最近特に過剰診断される傾向があると言うことを言ってそれを否定した。自分はこれまで感じていた気持ちに病名が付いたことに喜びさえ感じていたので、でもいろいろと思い当たるところが!ぐらいのことは言ったと思う。

 会社でまでこんなにこだわっていた理由はまだよくわからないけど、ひとつは病気なんだったら治るだろう、という思い込みがあったからのように思う。自分はけっこうこれまで生きてくる中の所々でいろいろと生きづらさを感じていて、本当に死のうかと思うようなタイミングも合ったのだけど、そういういろんなことが治療できた自分の病気のせいなのであれば、治りさえすれば本当に全部うまく行くんじゃないかと先走って考えていたところがあるんじゃないかと思う。産業医は、そう診察した医者に対して、「その医者は変わってる、そんなこと言ったって、何の救いにもならないもん」といった。そのときの自分は、おおいに救われた気分になっていたので、その意見を不満に感じたけれど、今となっては産業医の「セカンドオピニオン」はもっともだったのかなと思う。

 休むことになっても、2週間に一回の診察、月に一回は会社に行って産業医との面談があり、なんとなく落ち着かなかった。これも後から振り返ればだけど、最初の2ヶ月はたしかに元気がないというか、心が落ち込んでいたと思う。3ヶ月目に入るか入らないかという時に、具体的に異動を検討するという話があって、そのためにもう一ヶ月休んで、と言われた。もう一ヶ月休みが伸びて、よかったと思った。本当にそんな感じだった。3ヶ月目に入ると、ある程度元気になってきていた。本を読んだり、ロシア語の短期講座に通ったり、なんといってもアメリカ旅行をしたりした。アメリカ旅行の件はすでに書いたのでいいとして、平日の昼間に公園を散歩したりしていると、子どもやお年寄りがたくさんいて、地域社会の存在を実感することが出来たりする。サラリーマンには見えない世界もあるのだと思った。公園のベンチで詩の朗読をしたりもした。彼女には、アスペルガーのことを話した。医者が自分に見せたような本を買って、それを渡したりした。最初はなんのこっちゃという感じだったけど、真剣に受け止めてくれたようだった。それでも捨てられなかったんだからすごいと思う。どこまで理解があるんだと、正直心配になるくらいだった。

 復職後は転勤があって、うまくいったりいかなかったりはあるけれど、まあなんとかやっている。引っ越しや、新婚旅行や、いろいろな新しい生活の準備が慌ただしい。30年近く住んだ家を出る感慨も、新しい生活に対する不安や希望も、まだ実感がない。飽きたからこれぐらいにしておく。