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ヴァルヴレイヴ最高! 松尾衡(とヤマカン)のブレヒト的演出について

感想 アニメ 演劇
賛否両論渦巻いてる『革命機ヴァルヴレイヴ』を全力で応援したい。松尾衡山本寛の演出が素晴らしく今の映像作品の消費スタイルにマッチした表現を採っているという話。

 ブレヒトの叙事的演劇は、物語に引き込んで共感させるのではなく、物語の外から見せようとするもので、これは映画やテレビ時代の新しいメディアでの演出法を予見するものだった。舞台と観客が切り離されているメディアでは観客に見方を強制できない。集中して見てくれなかったり、見て欲しいところを見てくれない。そもそも期待した人が見てくれるかどうかわからない。そういうテレビや映画(アニメも)では、共感モデルの演出では多くの人に制作者の意図が正しく伝わらない。

 叙事的演劇は、システマティックに物語とメッセージを伝え、俳優や効果の「技術」(アニメなら作画や声優の演技)を提示することによって、観客に価値判断を投げかけるもの。観客が役者と一緒になってぼろぼろ涙を流すような見方が期待できない中で、技術を評価させる。どんなにシリアスな展開のアニメでも声優の棒読みとか作画のアラ探しとかおっぱいがどうとかしか語られない今のアニメなんてまさにブレヒト的状況が生じているわけで、新しい物語の見せ方が求められている。

 そんな中、この叙事的演劇を体現してるのが松尾衡(だから大好き)。『ヴァルヴレイヴ』の急に歌う演出は、『紅』のミュージカルを思い出すけれど、これは視聴者を物語から引きはがすために使われる。『夏雪ランデブー』は島尾が浮遊してることで画面の構図で物理的に三角関係を表現する。『ヴヴヴ』5話のショーコがスーパーの棚をぐちゃぐちゃにしながら走るシーンは、「そうそうこれ自分もやりたい!」なんて思わないけど、彼等が大人から解放された開放感、はしゃいだ感じが存分に伝わってくる。挿入されるロボット戦闘シーンは絵がいい加減だったら彼等の世界のバックグラウンドが拡がりを失ってしまう。プロットの統一性でつないでいくのではなく、周辺のコンテクストを巻き込むことで展開していく。「作画や声はいいのに、脚本がクソ」という評価をよく見るけど、技術がなくて見る人が共感できないんじゃなくて、共感させずに作画や演技を見せることによって物語を伝える脚本になってる。だからこそ作画や演技のクオリティーが重要になってくる。最大の特徴であるプレスコ制作は、役者の演技をコマ数などで制約しないことで自由な演出、演技を可能にしている(おそらくアニメーターの血反吐を見返りとしてw)。

 『ヴヴヴ』見てたらヤマカンを思い出したので『私の優しくない先輩』を衝動的に見たんだけど、山本寛も同じ見方が出来る。

 ヴァリエーション豊かな歌とダンス演出(『ハレ晴レユカイ』『motto☆派手にね!』『MajiでKoiする 5 秒前』)は自ら批評のまな板の上に飛び乗るかのよう。『先輩』の金田が海荷を後ろから抱きしめるシーンとか、そのあとの体育館で海荷が超絶技巧を披露するシーンとかブレヒト演劇そのもの。『かんなぎ』のムダにぬるぬる動かす作画だったり、『フラクタル』の「勘違い冒険少年バイバーイwww」だったり、物語から表現を浮かす例を挙げればきりがない。『先輩』の高田延彦のキャスティング(彼の芝居は他のもの見ても明らかに「大根」だ)とかも意識してそう。

 そういう見方をすると、けっこういろんな作品がこういう作りを意識してる気がするけど(最近だとシンフォギアとかビビパンとかいい感じだった)、少数派なのは否めないので、目立つのはたしかにそうかも。がっつりハートをわしづかみにしてきて大号泣できる作品もいいけど、そういうの狙ってきてもそれこそ共感できないものがほとんど。いい絵(作画スレの「たまんね」っていう感じ)やいい芝居(「ブヒれる」とか「シコれる」とか)に浸りながら、物語をじっくり噛み砕いていく作品もいいと思いませんか。