ボーカロイドオペラ『THE END』 天使じゃない初音ミクの身体とエメラルドグリーンのツインテール



ボーカロイドオペラ『THE END』
5/24 19:00- @BUNKAMURA オーチャードホール

 初音ミクが主演のオペラ。渋谷慶一郎岡田利規マーク・ジェイコブスオーチャードホール。娘がどんどん世界へ羽ばたいていくを見守る親心のような気持ちを抱きながら、そして現代の音楽、演劇、ファッション、映像、建築の最前線のクリエイターたちが「僕達の」初音ミクをどんなやり方でレイプするのか、楽しみにして開演を待っていた。

 オペラと銘打たれているのは、全編にわたって歌で構成されているからか。ミクのセリフ部分が歌(アリア)以外もしゃべるようなテンポのメロディーにのっている(レチタティーヴォ)。クラブミュージックっぽいノイジーなビリビリの電子音楽から、いわゆる「ボカロポップ」っぽい曲まで、連続的な構成はまさしくオペラ。その音楽に岡田利規の脚本らしい、断片的な、とりとめのないセリフがのせられる。無機質な感情を感じさせないセリフはミクの声とあまりにマッチしすぎて、しかも日本語と英語を交互に読み上げる演出だったりするので、前半は少しテンポが悪く感じたものの、後半になってストーリーの加速にあわせてセリフもリズミカルになっていって心地よかった。

 舞台を囲むように設置されたスクリーンに多層的に投影される映像のクオリティーとスケールはさすが。ミクのARライブは、ダンス映像と音楽のシンクロをとるために画面解像度やフレーム数に制限があるが、今回はリップシンクとか細かい点はあきらめて、スペクタクルを優先する演出。これは「身体を帯びたミク」という今回のテーマからすれば妥協に見える。一方で、テクノロジーが演出に制約を与えているというのは、まさに今回のミクの苦悩の状況とシンクロしている。

 そう、今回の物語のテーマは、「ミクの苦悩」だった。ストーリーの上では自らの死について苦悩する。直方体に区切られた舞台空間(直方体で空間を仕切るのは重松象平の建築の顕著な特徴だ)によって、「飛び出してきそうなミク」ではなく、「閉じ込められたミク」が強調される。ちょうど今展覧会やってるフランシス・ベーコンの作品のよう。閉じ込められるのは身体があるから。死ぬのは身体があるから。

 開演冒頭、カメラがミクの鼻の穴の中に入っていく。そこにはうごめく「肉」があって、「身体を帯びたミク」が打ち出される。この作品を見る前、「楽器としてのミク」を現代音楽の作曲家が使うだけならなんにも面白く無いな、と思っていた。シンセサイザーとしてのボーカロイドならそれはもうどうぞご自由にお使いください、である。しかしそこは渋谷慶一郎岡田利規。このふたりが一緒に作品を作って「キャラクター論」にならないわけがなかった。そして今回、キャラクターが存在するという事の意味を「身体を帯びる」というところに回答を見出している。初音ミクはかたちを得た、かたちをとったものは必ず滅びるのだ、と。これは演劇としてはとても都合のいい回答である。しかしキャラクターの存在は身体性と不可分だろうか。

 突然ですが、初音ミクは天使なのです。みんなの作品によって生み出されたミクという存在(GoogleのCM『ODDS&ENDS』のPVのミクのように)は、固有の身体に依存しないからこそ自由に音楽の宇宙を羽ばたいて、世界にさまざまなかたちをとって、存在できる。つまり、身体がないからこそ初音ミクは遍在できる。しかし一方で、舞台の上のミク、ライブ会場のミク、動画の中で歌い踊るミクに手を振り、呼びかけ、コメントを投げる時、その対象は明らかに「ある」のであって、この「ある感じ」こそがキャラクターの存在そのものだとして、これが「身体を帯びる」ということに結び付けたいというのは理解できる。岡田利規が主催する劇団チェルフィッチュの舞台は、トルソとしての身体を生身の人間で描き出すところに妙があると思っているけど、初音ミクを舞台に上げることは言ってみればこれと逆だ。単なるモデリングされたCGが舞台に立つ事によって自動的に生気を感じさせるということ。つまり、舞台に立つこと=身体を帯びること、なのだ。そして舞台上の初音ミクが、他の初音ミクと区別されてオーチャードホールの舞台に確固として存在するために、生々しい「肉」が必要だということが繰り返し強調されている。

 舞台には初音ミクに「似ようとして失敗している」痩せてグロテスクな、ミクの対照としての女の子が出てくる。彼女は希薄な身体を求める現代っ子のリアルであり、それでも生々しい身体から逃れられない人間を表している。ミクと偽ミクの女の子の会話はケータイを通じて行われ、しばしばノイズによって、あるいはチグハグな会話によってコミュニケーションに不都合が生じている。これもまた、ミクに身体が与えられているからこそのコミュニケーション不全だ。天使ではないミクは自分の歌を聴く人の感覚、心に直接染み入ることができない。生々しい身体から発せられるミクの声はスピーカーを通じて、ノイズまみれでしか届かない。しかし本来のボーカロイドは誰かの言葉を伝える楽器でありスピーカーだった。しかし対照となる女の子によって、ミクはその不完全な鏡像としての存在を得ている。主人公のミクは、「歌うことしかできない」、「言葉を与えられないと動かない」スピーカー=機械としてのミクであり、同時に舞台の上に存在することによって生々しい身体を得たミクである。このジレンマを抱えているため、ミクは偽ミクの女の子のように自分の死について割り切ることができない。ミクの苦悩がここにある。

 また、舞台の上にいるのが「初音ミク」だということは確認しておく必要がある。初音ミクが演じる女の子ではなく、初音ミクであるということ。物語の真ん中で、さんざんに舞台上のミクが生々しい存在であるということを描いた上で(そのためにミクさんは臭いといわれたり、触手にレイプされたり、散々な目に遭う)、満を持して、そして1度だけ「ミク」と呼びかけられる。ここでこの作品の目的が明確になる。この作品は初音ミクが「なぜ身体を得たのか」を主題としている。このように物語に沿って見ていくと、舞台上のミクは入念に準備されたプロットによって身体を帯びたボーカロイド初音ミク」として描き出されている。そしてそれによって、「この初音ミク」は初音ミクでありながら、ここにしかいない、特別な初音ミクとして存在していることを演出している。

 ところが少し視点を引いてみれば、観客が舞台上の初音ミク初音ミクと認識するために重要な要素は明らかで、あの無機質で機械的な声とエメラルドグリーンのツインテール以外にはない。このふたつによって初音ミクは他の誰でもない初音ミクになっているのである。「ミク」と呼びかけられた少女が初音ミクであると感じるのはその声とツインテによって、である。しかしこれはこの物語と明確に矛盾する。この声とツインテ初音ミクは、たくさんいるのだ。

 声がパーソナリティーを得るとすればそれは渋谷慶一郎のパーソナリティーだ。つまり初音ミクは楽器・スピーカー=機械としての初音ミクとしての役割しか果たしていない。声が楽器になったというのはボーカロイドの第一の特徴でもある。声においては「この初音ミク」は特別な存在とはいえない。あくまで「歌うことしかできない」初音ミクである。

 また、エメラルドグリーンのツインテール初音ミクとしての身体的同一性のイメージそのものである。YKBXによる大人びて、どこか病的な今回のキャラクターデザインは独特なものである。しかし、その彼のキャラデザですら、ツインテからは逃れられない。ミクが普段見慣れた姿を離れるほど、ミクがミクであるためにはエメラルドグリーンのツインテが欠かせなくなる。

 そして、そのツインテはまさに偏在することによってミクを同一化する。初音ミクは生々しく存在しようが初音ミクなのであって、初音ミクはたくさんいるのであって、やっぱり初音ミクは天使なのだ。生々しい肉、滅び行く肉を帯びることによって「あの初音ミク」だけが特別になるなんてことはない。キャラクターの存在と遍在は両立しうるのであって、そこに身体性は意味を失うのだ。舞台上のミクが身体を帯びるのはいい、けれどもだからといってその初音ミクを他の初音ミクと区別するのは身体を帯びているからではない。

 キャラクターはパフォーマティブな身体による同一性を内包しつつ、それを飛び越えて偏在する。劇場におけるキャラクター表現は原理的に部分となる。劇場の外に置かれた初音ミクのフィギュアや砂絵のようなパネルが、彼女のツインテールによって、もうひとつの劇場を作り出していたことはその一端を示す。ボーカロイドのオペラは、ボーカロイドを楽器にしかしない。初音ミクは死なない。しかしそれでいいのだ。初音ミクを特別にするのは劇場ではなく、ミクと「僕」が送ってきたかけがえのない時間なのであるから。