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ジブリ・イニシエーション 1 ー『サカサマのパテマ』と『星を追う子ども』、『フラクタル』ー

解釈 アニメ 映画 感想
 若手アニメーターのジブリラピュタ)オマージュの意味。そして、『サカサマのパテマ』が従来のジブリオマージュの地平を超えてきたことついて。

 ボーイミーツガール、ジュブナイル、少しくすんだ色調、未来的でありながらどこかレトロな舞台設定、写実とも萌え絵とも違う丸みをおびた人物作画など、「ジブリっぽい」特徴をあげればいくらでもあげられそうです。そして、この見た瞬間にそれとわかる「ジブリっぽさ」がスタジオジブリの作品を特徴付けていることは間違いありません。ところが、スタジオジブリの作品ではないにもかかわらず、明らかに「ジブリっぽい」作品も存在します。その中には、すでに高い評価や知名度を得ているアニメーターによって制作され、ジブリの威を借りたパクり作品の範疇を超えて、作家自身の意思表明の手段となっているものがあります。その代表例が表題にあげた3作、

 新海誠  『星を追う子ども
 山本寛  『フラクタル
そして、
 吉浦康裕 『サカサマのパテマ』

です。

 これらの作品はいずれも若手世代のアニメーターによるものであるものの、3人ともが過去作ですでに大きな成功を収めていて、しかも彼等の表現はそれぞれがかなり個性的な特徴を持っています。そのことは独自にスタジオを構えるなど、大きなスタジオに依存しない彼等の制作スタイルにも表れてもいます。そんないわばジブリや他の作家とは違う独自の表現をすでに手に入れたかに見える気鋭のアニメーター達が、なぜあえて「ジブリっぽい」作品をこぞって制作するのでしょうか。

 まずは、これらの作品が「ジブリっぽい」ことを確認しておきたいと思います。3作品共、見てもらえば冒頭にあげたジブリの特徴を良く備えていることがわかります。中でも、『天空の城ラピュタ』を強く意識していることが、ストーリー、キャラクター、背景、衣装デザイン、キャスティングなど、作品を構成する多くの要素において見て取ることが出来ます。

 例えば、『サカサマのパテマ』にはイザムラという人物が登場します。主人公のふたりを引き離そうとする彼のストーリー上の位置付けもさることながら、その衣装は『ラピュタ』のムスカを強く意識したものになっています。長身にエンジ〜紫の中世ヨーロッパ風のフォーマルな服装、とりわけ大きなチーフタイはムスカのアイコンとすら言えるもので、イザムラはそれらの特徴をほとんど完璧に備えています。『フラクタル』においても、ほとんど同様のキャラデザといっていいキャラクター、バローが登場します。ストーリー上、主人公ふたりの最大の障壁としての「ムスカ」が両作品に登場し、それが衣装デザインにも特徴的に表れていることがわかります。

 『星を追う子ども』では森崎がムスカ役です。チーフタイはないもののやはり容姿はよく似ています。彼は物語の前半では典型的な「ムスカ」ですが、中盤以降主人公と行動を共にするようになります。ラピュタと異なるストーリー上の役割担うかと思いきや、作品のクライマックスで彼は強い光(人知を越えた力=バルス)に目をつぶされて失明します。また、『星を追う子ども』には物語の中盤、宮崎駿ご本人が登場します。主人公と共に訪れる村アモロートの長老は、シーンによっては写実的とすら言っていいほど明らかに宮崎駿です。彼は森崎が求める死者の復活の方法を、古い伝承をもとに伝える人物として描かれます。宮崎駿ムスカの対談というなんともアツいシーンが描かれます。ここまで来るともはやオマージュを通り越し、一種の2次創作とすら思えます。

 さて、もう少し視点を拡げてみると、物語の構図自体が『ラピュタ』と同様であることがわかります。図で示してみることにしましょう。



 主人公のひとりが、パートナーとなるもうひとりの登場によって考えや生き方の違う人々と交わることとなり、戦い、成長していく構図が共通項として表れていることがわかります。ヒロイン(『星を追う子ども』ではシュン/シンで男性)は異世界をつなぐ役割を果たし、それは光る石や「鍵」といった言葉によって象徴されます(クラビスもラテン語で鍵の意味です)。この物語の基本形を還元したのが次の図です。この物語の構図を「ラピュタの三角形」と呼んでいきたいと思います。


 主人公は、異世界からやってきた異性のパートナーとの出会いをきっかけに、そのパートナーを追い詰める権威主義的・全体主義的(その代表がムスカ)な相手に立ち向かいます。そして、自由で家族的な社会を営む仲間の助言、助力を得て、権威に打ち勝っていく。冒険を通して成長したふたりは、その仲間にも別れを告げてふたりの道を歩み始める。これが4作品に共通するプロットです。これはラピュタに限らず、王道の冒険活劇(ジュブナイルストーリー)のプロットといえる内容で、それ自体が革新的なストーリー展開なわけではありません。しかしこの陳腐であることがむしろポイントになっています。吉浦康裕は『パテマ』制作にあたって、「アニメの普遍的な力を信じているので、マニアックな作品にしたくなかった」という内容のことを語っています(『パテマ』設定資料集より)。だからこそ王道のストーリー展開やキャラクター設定を用意した、としていて、その中で『ラピュタ』についても言及しています。普遍的な物語の力、これが後に続く3人の作家をラピュタの三角形」に導いたと考えることが出来ます。山本寛との対談ではこの点がはっきりと語られています(ヤマカン「やっぱりラピュタでしょ?」)。
 
 この「ラピュタの三角形」型のプロットはなぜ普遍的な力を持つのでしょうか。それはこの三角形をサカサマにしてみるとわかりやすいと思います。ムスカ=父、ドーラ=母、その間で揺れる子ども達=パズー、親子の系図となるのです。そしてこの図は、パズーの成長と並行して描かれることで、きれいにエディプス・コンプレックスの型となっています。「パズー」は父としての権威「ムスカ」に立ち向かい、母としての「ドーラ」と手を組み、父を殺す。同世代のパートナーを得て母からも旅立ち、自我を確立する。4作品が主人公の成長を描いた物語であることは言うまでもないことですが、それはこの心の発達段階を投影した三角形の構図によって描かれることで「普遍化」します。4作品中『星を追う子ども』のみが主人公が明日菜、女性ですが、そうすると三角形の他の頂点も性別が逆転するのは興味深いことといえます(アガルタの長老は女性であり、アモロートの老人=宮崎駿は男性。この構図が影響してムスカ=森崎は他作品と別の役割を担うのかもしれません)。


 『ラピュタ』の物語はエディプス・コンプレックスを原型として、多くの人が成長の過程で経験する心の成長段階をファンタジーに昇華させたものであったため、多くの人の心に響くことが出来た。後に続く3作品は、この「ラピュタの三角形」をなぞることによって、「普遍的」な物語の力で、より多くの人に作家自身のメッセージを伝えようとしたために、この型を選び取ったと考えることが出来ます。これらの作品以前の3人の作品、『ペイル・コクーン』『イヴの時間』『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『らき☆すた』『かんなぎ』などは、いずれの作品も非常に成功した作品ではあるものの、いわば一部のオタク層に訴求したものでした。3人のアニメーター達はアニメの力を信じているからこそ、そしてスタジオジブリを知っているからこそ、それでは満足せず、もっともっと多くの、すべての、人に作品を届けたいと考えた。すべての人に届く作品を目指すことを偉大な先人である『ラピュタ』の肩に乗って宣言する、そのための作品がこれら3作品だったと考えることが出来ます。
 
 これらの作品は、作家自らの表現・思想を多くの人の前で宣言する、作家達の決意表明になっています。複数の才能に恵まれた作家が、非常に似た形式でジブリへのオマージュを描くのはただの偶然ではなく、物語が少年の成長を描き出すように、これらの作品自体が作家達にとってもクリエーターとしての成長のための一種の通過儀礼となっているのです。このことを若手アニメーター達の「ジブリ・イニシエーション」と呼びたいと思います。

2へつづく