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これはパンツではない。『劇場版 Wake Up, Girls! 』



 山本寛のステージシーンの特徴と、それを活かしつつ『Wake Up, Girls!』に用いられた演出の意味について。

 ロラン・バルトは 写真論『明るい部屋』の中で、写真は絵画的にではなく演劇的に解釈されるべきだ、ということを言う。絵画は描かれた対象をめぐる関係性を読み解くことで理解される。一方演劇は、そのように築き上げられた関係性に断絶が生まれること(ロミオとジュリエットの愛を毒薬が引き裂くように)を「劇的に」感じ取るものとして理解される。コードを理解するか、脱コードを感じるか。バルトは前者の経験を「ストゥディウム」、後者を「プンクトゥム」と呼び、後者の経験を写真解釈の上で重視した。

 一応ネタバレ注意。夏コミで買ったガイドブック(サイン入りポスター付き)のおかげで、完成披露試写会に行くことが出来た(写真はそのときの握手会場)。この作品は筋を知ってから見ても楽しめる作品だけど、先入観を持って見たくない人、単純にネタバレ嫌いな人はぜひ見たあとに読んでください。

  まず、とても出来のいい作品。話の筋はしっかりしているし、絵はとてもきれいだしよく動く。アニメーションとしてのこだわりを感じるし、CGの使い方もうまい。オーソドックスなレイアウトながら退屈を感じさせない、豊かなキャラクターの表情や仕草の描写。活気あふれる少女達がアイドルとしての一歩を踏み出すまでが丁寧に描かれていく。そう、王道アイドルアニメのお手本のようなぬかりない構成である、ここまでは!

 思い出した、これは山本寛監督の作品であった。ただきれいなものを見せて満足させて帰らせてくれるわけがなかった。作中にちりばめられた他作品のパロディのメタなギャグ。「このクソムシが!」とか「ボロ雑巾」とか。ボロ雑巾のくだりではこのセリフを聞いたヒロインたちのうち、メイド喫茶でバイトしているオタク女子だけがクスッと笑うおまけ付き。それから、新人アイドルたちに「あんたたち、処女ぉ?」とゲスいセリフを吐く女社長、これは『フラクタル』のクライマックスを思い出す。さらに、シリアスなシーンでヒロインが「こんなのってないよぉ」と号泣するシーンはギャグなのか真剣なのか困惑する。これだけでパロディとか言うと、ヤマカンにディスられそうな気がする。

 もうひとつの特徴は、緻密なロケハン。ヒロインが自宅からどのように仙台まで出てきているかまで考えて作っているという。アイドルたちが仙台の街の中を生きている、同じ世界で生きている、その感覚を精緻な背景とは別のアプローチで実現している。一方ではメタな演出によって物語に没入させず、一方では物語の人物が画面の外に出てきたような空間的なつながりを感じさせる。これらの演出はいずれも、視聴者に自身が生きる場所を感じながら作品を鑑賞することを目指すものになっている。

 そしてなんと言っても、アイドルたちが歌い、踊る、ライブシーンがこの作品のクライマックスであり、最大の魅力であり、見る人によっては絶望的な欠点ともなるであろうことは間違いない。ここでもまた、見る人に「いまここ」を感じさせる演出が用いられている。

 ヤマカンのダンス演出ははっきり言って別格である。彼の手による『涼宮ハルヒの憂鬱』以降、幾多の作品がまるでコンテストの課題かのようにキャラクターを踊らせてきたが、彼はそれをあざ笑うかのように『かんなぎ』、『私の優しくない先輩』でその別格っぷりを見せつけてきた。彼の演出の妙は、「指先が生きていること」にあると思う。キャラクターの身体が躍動する中で決してトルソにならず、統一性を保って身体の芯から指先までが有機的に「生きている」。それは今作の、7人のアイドルが同時に激しく踊るステージにおいても見事に実現されていた。

  そこへパンツである。『WUG!』のステージシーンにはアップのパンチラのカットが多用される。アイドルたちが衣装も用意できず、制服のまま踊ったので、パンツが、見えるのである。上記のとおり、おそらく日本で、世界で、こんなに素晴らしい少女のダンスのアニメーションを演出できる作家はそうはいない。そのたぐいまれな芸術作品に、しまパンのどアップがしょっちゅう挿入されてくる。あぁ、やっちゃった!「勘違い冒険少年、バイバーイWWW」ぶりに派手にやっちゃった。なぜ、こんなことを。。。

 そう、これはパンツではない。プンクトゥムである。

 彼の演出の特徴は、人物のダンスの動き全体を統一された身体として描き出すことにあった。その中にあって、突然のしまパンのアップはまさにその身体的統一性の断絶となっている。この映像においてこのパンツを、踊っている新人アイドル7人のうちの誰かの身体と結びつけることは難しく、さらに言えば、これがパンツであるかさえ怪しいのである。

 この断絶は、『ハルヒ』の系譜から『WUG!』を引きはがす断絶であり、作画やレイアウトの質の評価という客観的で定量的な視点に与える断絶である。ヤマカンは視聴者に、このダンスシーンを他作品と同じ土俵にのせて比較する、優劣の順位付けをする、そんな見方を許さない。ステージで踊る少女達に透き通った視線を向けることを許さない。なぜか。それは彼の作品に通底して込められている、アニメとその視聴者に対しての批評精神と啓蒙主義に導かれている。

  客観的な視点、分析的な視点、誰でも同じ見方が出来る視点。これは見る側の「視線」を隠蔽する手段である。自分を消したい、誰からも認識されないまま認識したい、世界をただ見ていたい、欲望のままに。それを擬似的に実現し、主人公にならずに物語を覗く方法、それが客観的、分析的な視点である。しかしその最中、ステージに投げ込まれた「しましまな三角形」と「アイドルのパンツ」がショートするとき、視聴者は自らの視線に気付かざるを得ない。アニメを見ている自分とその周囲の世界に、ハッと我に返るのである。

 本作は、震災後の仙台を舞台にしていることを強く押し出した作品になっている。それがどのように今後のストーリーに展開していくかは予想がつかないが、プロローグとしての位置付けである本作は、まずは私たちの生きる世界との空間的連続性、同じ世界に生きているという感覚を打ち出してきた。これは東北の街に想いを向けさせるという点で、芸術の力を感じさせる美しい方法である。しかし、これは単なる聖地巡礼プロモーションではない。物語に逃げがちな私たちへ、それでもこの世界で生きるしかないのだ、物語に逃げ込むことは出来ないのだ、という強いメッセージを投げかけているのである。

 ヤマカンはオタクに優しくない。「Wake Up!」と言われているのはステージの上の「Girls」だけではなかった。パンチラに思わず瞳孔が反応してしまう、レンズの手前のクソムシたちに向けられた檄なのであった。

 ぜひ劇場へ。