『スカイ・クロラ』、父と息子、そのとき娘は。

DVD見ました。感想と考察を少し書きます。
静謐な、ってこういうものの形容に使うんだろうなっていう。
映画館で見ていたら、絵だけで泣いたかもしれない。
ただ、キャラがNARUTOっぽいのは愛嬌(^^;;;。
村上春樹とかに通じるものがあるんだろうか。読んだことないけど。

※深刻なネタバレ注意!


1.「父殺し」

 はじめに、この作品の物語構造を確認しておきたいと思います。「『スカイ・クロラ』は父親殺しの物語です」(だって最後に、"I kill my father." っていってるし)。まずはこの作品が「父殺し」のモチーフによって構築されていることを確認したいと思います。

 「キルドレ」は大人にならない(「なれない」のではない、と函南は言います。)、とされています。しかし、キルドレとされる登場人物を見ていると、極端に年配の人物こそいないものの、すでに精神的にも身体的にも、あるいは周囲の大人とされる人物達との関係においても、「大人」と呼んで良さそうな人物が多く登場します。「大人にならない」とはどういう意味か、これが物語の主線となって展開していきます。そして作品のラストシーン、「ティーチャー=father」の殺害の失敗によって、「なぜ大人にならないのか?」という疑問に「それは父親を殺せないからだ。」という回答が与えられます。

 ラストシーンを見てから振り返ると、はじめは自分の存在に疑問を持つことに無関心であった函南(「仕事なので。」)が、草薙や三ツ矢との出会いを通して大人に「なれない」自分への疑問を募らせていく過程が一貫して描かれていることがよくわかります。中でも、草薙が函南キルドレの存在意義と役割を(酒に溺れながら)語るシーン、「絶対に勝てない敵の存在」というルールは、まさに上記の疑問への回答であり、我々の世界と作品の世界が「唯一」異なる点として提示されています。

 「唯一」と強調した理由が2点あります。ひとつは、キルドレが「製造」された過程など、作品設定の基本となっているSF的要素は、もはや我々に「全然違う世界が描かれている」という印象を与えないからであり、さらに言えば、この作品がそういった印象を与えないように制作されていると感じられるからという理由です。もうひとつは、作品の世界が、登場人物をめぐるミクロの「父殺し」と作品の世界を包むマクロの「父殺し」という構図によって、我々の世界と同じ構造を持っているのだということを強調して見せているから、という理由です。

 「ミクロとマクロの構図」についてわかりやすく言えば、すべての人間は存在の本質に「父殺し」という闘争を抱えているので、その人間が集まって作る社会や国家というレベルでも闘争、つまりは暴力や戦争をやめることが出来ない、という個人と社会や国家の関係を相似形としてとらえる構図、となります。ここで私は「すべての人間」と書きましたが、それにはとても大きな、「女性」という、例外が存在すると思われます。これがこの文章の本題です。


2.フロイト

 この作品のストーリーは、おそらくかなり意識的に、フロイトのいわゆる「エディプス・コンプレックス」の構造に沿って作られていると思われます。「父殺し」とはエディプス・コンプレックスの克服であり、これが出来ないので大人になれないという図式はフロイトの主張に当てはまります。(とはいえ現実の「父殺し」は、象徴的な意味にとどまります、普通は、、、ゾッ)。「女性」というキーワードでこの作品を読む際、エディプス・コンプレックスにおける性差は見逃せないポイントです。エディプス・コンプレックスは「親子間のチンコをめぐる壮絶なせめぎ合い」ですので、必然的にそこでの立ち回り方には性差が影響してきます。そして、超自我の形成の過程で「父殺し」を求められるのは男性のみなのです。(この点から、草薙がティーチャーと遭遇、対峙しながら殺されなかった理由が、草薙はティーチャーを殺そうとしていなかったからだ、という推測が成り立ちます。)

 さて、女性を例外とした理由はここにあります。つまりこの作品に描かれる、「本質的に暴力を内包する人間と、そのマクロとしての世界」(それは我々の世界を投影したものです)は実は、「男性をミクロとしたときのマクロとしての世界」であり、極めて男性中心主義的に構築された世界だと考えることが出来ます。ここで一応断っておくと、私は制作者が女性差別主義者であるなどと主張するつもりは全くありません。今まで繰り返してきたように、作品の世界は、我々の現実の世界を映す鏡として意図されており、その点では逆に、制作者の批評精神を感じることが出来る気もするぐらいですが、この点は立ち入りません。ともあれ、作品の世界はこのように作られ、それはキルドレの属す組織である「ロストック社」の軍隊式の体制にも反映されています。それをふまえた上で、『スカイ・クロラ』の女性キャラクターに注目してみます。


3.「女性の役割」

 主要な登場人物中の二人の女性、草薙と三ツ矢(ちなみに私は草薙水素にゾッコンです。「泊まっていってもいいのよ。」グハッ)には、ストーリー展開上明らかに「女性の役割」が与えられています。その役割とはすでに書いた通り、函南に「大人になれない」ことを再認識させるというものです。ではなぜそれは「女性の役割」なのか。それは、男性キャラクター達が一様に自分の立場に無関心を通している(それは新聞を几帳面に折る男のエピソードに特筆されるように、異常さすら感じるものです)のに対して、この二人だけがそれと向き合おうとするからです。

 男性達が無関心な理由は、すでに述べたことによって説明できます。函南を含めたキルドレ達は「(男性の)父殺しの闘争」が本質的に組み込まれている社会の一員であり、さらに世界全体のレベル(=マクロのレベル)では擬似的に「父殺し」を演じているにもかかわらず、個人レベル(=ミクロのレベル)では父殺しを達成することが出来ません。ミクロとマクロが一致せず、自己の存在の根幹が矛盾しているために、自らのアイデンティティを確認することができないのです。それ故に彼らは自分の存在理由に対して無関心(あるいはそれを装う、「気付かないふりをしているのさ。」)以外になすすべがありません。ここでアイデンティティという言葉を使ったのは、エディプス・コンプレックスアイデンティティ確立のプロセスへの説明であるからで、この物語がこの構造をなぞっていることがこのことからもわかります。

 一方、女性はそうはいきません。男性中心社会において、女性はその周縁の存在です。そのなかで、キルドレという社会を支える(維持する)「中心的な」システムとしての役割を担わされている草薙と三ツ矢は、それぞれが持っている、社会の周縁としての女性のアイデンティティから、社会の中心にいる自分を見つめずにはいられません。言い換えれば、自己を相対化せずにはいられないために、決して無関心になることができない。男性はアイデンティティの維持のために、アイデンティティの確立を無関心によって放棄できる(これはむろん矛盾ですが、キルドレはこうして生きています)のに対し、女性はそれが出来ない。三ツ矢が函南の部屋にやってくるシーンはまさにその悲劇を描いています(「まるで自分はキルドレじゃないみたいだね。」)。

 三ツ矢と草薙は同じ葛藤を抱えていますが、反応は対照的です。三ツ矢が自分を「中心」において、自己を引き裂いていく一方で、草薙は周縁としての(=女性としての)自己を手に入れようとします。すなわち父を待望し、子供を産みます。しかしその願望が満たされることはありません。たとえ子供を産んだとしても(生まれたのは女の子です)、その父親を自ら殺してしまい、彼女は母になることが出来ない、あるいはそれを拒否します。

 二人の女性はそれぞれのやり方で「女の主体性」を持ちつつあるように見えます。しかしそれはあまりに不完全なもので、結局は自分に内在する男性社会のルール(草薙が函南とキスをしながら握るピストル、なんと象徴的なシーン!)、および「大人にならない」というキルドレのルールに抵抗できません。なぜなら、それが彼女の「主体」なのです。これは破滅の要因が外部にある函南の最期よりも悲劇的に思えます。


4.二つのレベルで

 作品に描かれる「女性の役割」についてさらに言えることは、女性が「中心」に入り込むこと、つまり草薙と三ツ矢がキルドレとして存在することは、それ自体が男性中心社会、つまり世界全体への攻撃になる、という点です。矛盾を覆い隠すルールの存在自体(キルドレとかティーチャーとか)に疑問を投げかけるということは、サッカーでどうして手を使ってはいけないのか問いただすようなもので、秩序を根幹から揺るがす行為です。しかし草薙と三ツ矢はその根幹に疑問を持ち続けます。基地が爆撃を受けた際の草薙の上官への抗議は彼女が女性であるからこその行動といえるでしょう。なぜ自分は訳のわからない理由で生き、殺されなくてはいけないのか、に対して問うことが出来るのは女性なのです。そして二人の女性と疑問や葛藤を共有するうちに、函南の無関心は変化していきます。これも一種の攻撃といえます。この場合刺激といった方がいいかもしれませんが。

 また、一種のメタドラマとして見ることも有効かもしれません。つまり草薙と三ツ矢は、物語の根本をなす秩序を見つめている点で、我々観客と視点を共有しています。この作品は二人の女性キャラクターを置くことで、作品の内部にありながら作品を相対化し、ファンタジーやSFで終わらないことを指向していると考えることは出来ないでしょうか。それが最初に述べた、作品と我々の世界の類似性を浮き立たせているとも言えるかもしれません。
草薙と三ツ矢の葛藤は物語の最後まで解決することはありません。言うまでもないことに、函南の死は函南自身の悲劇であると同時に二人にとっての悲劇でもあります。滑走路から空を見つめる二人からは、恋人の死を嘆くよりも、むしろ自らの希望が潰えたことへの諦念を感じます。


5.『スカイ・クロラ』の拡散指向

 最後に、この作品は悲劇的な結末でありながら、希望がある、と私は読んでいることを書いておきます。スタッフロール後の作品の冒頭の繰り返しともとれるシーンは、順当に読めば悲劇の繰り返しを予感させますが、私は次はこうは終わらないという感覚を抱きます。映画は幕を下ろし、そこに残るのは我々の世界です。それはキルドレの世界と極めて似ていますが、「キルドレのルール」は存在しません。それでも、人が本質的に闘争を求めるのだとすれば、我々が「ティーチャー=father」を殺せたところで事態は好転しないでしょう。それでも、少なくともある「変化」を起こす可能性は生まれます。この「変化」こそ私が感じる希望です。「大人になる」ことへの希望といってもいいかもしれません。そしてこの希望を支えるのは、愛も、生も、死も、破壊や暴力も、すべてをおおう作品の美しいヴィジョン、その崇高の感覚なのです。

 以上で、『スカイ・クロラ』において二人の女性キャラクターが担う重要性、そして二人が女性である必然性を論じることが出来たとしたいと思います。スタッフロールでキャストとして一番最初に名前があるのが函南ではなく草薙であることは、もはや主人公という「主体的な」概念がこの作品に通用しないことを感じさせます。現代の破壊や解体などのキーワードで語られる時代の機運は、ネガティヴな調子で語られがちです。しかし、あらゆるものが「中心」からの放射線で語られる構造を解体する試みは、「中心」と「周縁」、「主体」と「客体」といった二分法を分散、拡散し、あらゆる多様性を受け入れる社会の到来に備えるものです。『スカイ・クロラ』がこのような作品である以上、「主題」といったものについて論じることはナンセンスとも言えます。この作品が現代を忠実に描き出しつつ現代の意味に光を当てている、とだけ述べて本論を閉じたいと思います。