『サマーウォーズ』は反動的か。

※ネタバレ注意!


暴走したネットコミュニティーに「家族」が立ち向かう構図。
加えて、見事なまでにきっちりと死と再生の儀式構造が見て取れる点、
一見しただけでは、とても保守的、反動的なストーリーが見えてきます。
でも、いくつか気になる点も、、、

・主人公の希薄さ
主人公健二は一族のまとめ役の栄おばあちゃんから、擬似的な「家長」としての役割を任されていることによって主人公たり得ているわけですが、ヒーロー的な要素が薄いです。最後の最後で決めてくれるところはなかなか感動的ですが、花札対決場面での夏希の変身シーンに全部もってかれてます。

・ヒロインの家族
そもそもヒロイン夏希の陣内家における位置づけが特殊です。栄の長男の家系ですが、夏希の母は夫の家に嫁いだため、現在は陣内家ではありません。仮に健二が本当に夏希に婿入りしたとしても、陣内家の家長になることは出来ません。ほかにも「本家」の血が途絶えかけているなど、物語の中心の家族は「最後の輝き」を放っているように見えます。

・ドイツの男の子
花札対決場面で助っ人として現れますが、劇中のせりふにもあるように「だれ?」です。ネット型vs家族型コミュニティーの単純な対立構造からすると、彼やそのほかの協力者の登場はストーリーの破綻に見えます。そのほかにも、一連の騒動のサポート役として健二の友達の佐久間や、栄の異常に強力なコネクションなど、家族外の人々の役割が無視できません。


 見て取れるのは、ネット型コミュニティーと家族型コミュニティーの対立ではなく、ネットコミュニティーを家族型コミュニティーの拡張と見る姿勢です。逆に、過度に複雑化した(怪物と化した)ネット型コミュニティーを家族型に還元しているともいえます。誰も実体をつかむことが出来ないほどの巨大で複雑なコミュニティー(「OZ」)の中に、「家族の暖かさ」を見いだすことで拡大し続けるネット型コミュニティーを楽観視しているということが出来ますが、この見方はやはり伝統的な家族制度のみをコミュニティーの基本単位として見ている点で、インターネット時代のコミュニティーの描き方としては保守的です。一方、再生、共食といった儀礼のモチーフの用い方はあからさますぎて恣意性を感じます。これもやはり、ネット型コミュニティーを伝統的な枠組みに還元する上で、出来る限り典型的な伝統的コミュニティーを再現することが要求されたと考えるべきでしょうか。しかし、意識的な誘導によってネット型と家族型の二つのコミュニティーに「親子関係」を見出すこの構造は、元を返せば「二つの異なるコミュニティー」を言外に認めていることになるのです。制作者はこの事実に気付いているでしょう。それが、無意識に気付いているだけなのか、夏休みに「家族で」見ることなどを考慮した(エンターテインメントとしての価値を優先した)上での構成なのかまではわかりません。
 伝統的価値観への還元の試みは表現手法にも表れています。顕著なのは、栄の死後、夏希と健二が縁側に座っているシーンでしょう。あえて断るまでもないほど、この映画の中で間違いなく最高に美しいシーンです。純和風の邸の中からパノラマ的に映し出される信州の山並み、田園風景、そこに包まれて二人は座っています。夏希は恋愛感情あるいは強いあこがれを抱く侘助が、同様に深く尊敬する栄の死のきっかけを作ったという事実に傷つき、やりきれなさに涙する。健二は夏希に求められるまま手を握りますがあふれる涙を止めることは出来ず、その無力感がひしひしと伝わってきます。野暮な解釈が憚られるほどですが、ここまで書いておいてここでやめた!というのもないのでいえば、ここでのパノラマ風景の描き方、つまりアニメーションの平面性を利用して、近景、中景、遠景を3分割するやり方は、浮世絵など、東洋絵画の伝統に明らかに習ったものです。描かれる風景もあいまって本当に浮世絵のようです。こういった東洋的な美意識が、ストーリーにおいても伝統的な表現を呼び起こしているとしても不思議ではありません。アニメーションの性格から見ればむしろ順当な創造手続といえるかもしれません。一方で、今回の場合はかなりおとなしい表現で、かつリアルを指向しているとはいえ、パロディ的に日本的であろうとする態度はアニメのひとつの様式ともいうべきもので、あまりこの点を深読みするのは危険かもしれません。
 とはいえ結論として、『サマーウォーズ』はインターネット時代の将来を描くものとしては相当反動的といわざるを得ません。しかし、そういった表現が多くの人の感性と共鳴するのもまた事実でしょう。私自身は上記の考えに共感は出来ませんが、美しい画と丁寧な人物描写によって、純粋に気持ちよく物語を受け入れることが出来たことは加えておきたいと思います。