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『アメリカン・スナイパー』批判

感想 映画
 自分はクリント・イーストウッドの映画が好きだ。

 『アメリカン・スナイパー』は、戦争が理由によらず悪だ、と考えている人にとっては(自分もそうだ)、すんなり反戦映画として入ってくる。主人公はアメリカそのもので、正しいと信じてイラク戦争に突き進み、だんだんそれが揺らいでいき病んでいく。ところが、あの戦争を正しいと信じている人がいることに目を向けると、そう簡単ではないことに気付く。戦争は大変だ、けれども正義は最後までやり遂げなくては、悲劇を乗り越えなくてはいけないんだ、と見ることが見方によっては可能だろう。

 たしかに、主人公とアメリカそのものが重ね合わせられている。中東の一般市民、通りがかりの女性や小さい子どもが武器を忍ばせて襲ってくるテロリストとして描かれること、そしてテロリストとしてしか市民が描かれないこと。イラクでは市民も全員敵だ(その可能性がある)、だからスナイパー(アメリカ)はそんな戦場(イラク)を遠くから見て、遠くから撃つ。これは、アメリカが戦争を正当化してきた理由と重なる。

 そして、そんな戦場で戦わなくてはいけないのはなぜなのか。正義感から戦場におもむいた主人公も、(自分、仲間、国が)負った傷の復讐として戦うようになっていく。そして、戦場で失明し、その後死ぬ同僚からも復讐はやめろと説かれ、戦う理由に疑問を持ちながらももはや最初の信念を曲げられない。9・11の復讐の矛先を無理矢理サダム・フセインに向けた、アメリカのイラク戦争そのものだ。

  アメリカでは、この映画が愛国心をくすぐる事、そしてそういった層の観客に支持されてこの映画がヒットしたことへの批判が強い。一方、日本では主人公の苦悩に重点を置いて、イラク戦争不都合な真実を描いた映画として評価する声が大きい。このギャップは、冒頭に書いたようなこの戦争への見方の違いにあるかもしれない。イラク戦争を部分的にせよ正しいと考えている、あるいはそう信じたい人がアメリカには少なからずいるのだ。

 しかし、この映画がそのように両面的な、多様な解釈を可能にするために、フラットに事実を提示しただけの作品としてとらえるとすると、見方を誤るだろう。やはりこの作品のイラク市民の描き方は、主人公クリスの殺人を、そしてアメリカのイラク戦争を、映画の物語を成立させるための道具にしている点で問題があると言わざるを得ない。無口で不気味な敵役のスナイパーであるムスタファの描写もイラクを「悪役」に仕立てたアメリカのやり方をそのまま映画の物語に転写している。これは主人公クリスの苦悩や、イラク戦争の大義への疑問をこの作品が提示しているとしても、見る人にこの戦争の性質を見誤らせる構造だ。イラク戦争が誤りであった第一の理由は、それによってアメリカが苦しむからではない。理由をでっち上げて戦争を始めたこと、それによって中東を混迷に陥れ、多くの人がその犠牲になったことであり、それが本当に批判すべき事なのだ。

 これまでイーストウッドを、保守派が多いハリウッドの中で、自分が今のハリウッドを作ったのだというプライドとリベラリズムに立った政治的テーマを両立した作品を送り出し続ける、つまりリベラルなハリウッドを見せてくれる、ハリウッドの良心のような存在だと考えていた。今回の作品も見終わったあとの感想は、日本のメジャーな映画評と同じようなものだったし、本国での批判を読んでも、当初は彼が共和党員であるというレッテルに縛られすぎているのではないかと思っていた。

 イーストウッド自身はイラク戦争については批判的な立場だという。それを考えても、この作品は単にイラク戦争を戦う兵士の奮闘を美談として描いた作品ではないと考えていいと思う。しかし、この作品はやはり愛国者のための映画であって、イラク戦争への、アメリカが行った過ち、あるいは世界のシェパードとしてのアメリカを根本から批判する作品にはなっていない。

 戦争は絶対悪である、という視点に立った論評を行ってこの作品を賞賛するのはある面において正しい。しかし、この作品で描かれているのは、ポエニ戦争でも百年戦争でもフランス革命でもなく、10年ちょっと前に始まり、今なお尾を引く戦争を描いた作品だ。戦争批判になっていればいい、というレベルで語るだけでは、思考停止、平和ボケといわれるだろう。戦争とは、ではなく、イラク戦争とは、と問い直したとき、『アメリカン・スナイパー』は、この戦争を反省としてアメリカの国際社会での役割を見つめ直させ、今のアメリカに進むべき道を示す、そのような作品にはなっていない。カウボーイ映画(水戸黄門)だという批判は残念ながら当たっている。主人公がラストで死んでも、「正しい方」は最初から最後まで決まっている映画になってしまっている。

 これは、自分にとっては少し残念な結論だ。けれども観客に熟考を促す無音のスタッフロールの中で、作品の犯した過ちに気付くことがイーストウッドへの最大の敬意となると信じている。