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『ちゅーぶら!!』〜子どもの性表現について〜

 最近のネット界隈でのアグネス・チャン人気はすごいですね。児童ポルノ規制の旗手として、一部の間ではそれが転じて言論弾圧の悪の権化みたいに怪物化しているアグネスさん。ところがその一部のネット社会でもまんざらアンチ一辺倒でもない感じが面白いです。「来いよアグネス」って完全に待望してるもん。で、「うわーアグネス来たーっ!」って逃げるのが面白いんですよね。そんな感じがします。この辺の危機感のなさをアグネスさんは訴えているのだと思います。

 そんなつもりかどうか、中学1年生の少女達が下着部なるものを作って奮闘する『ちゅーぶら!!』というアニメの話をしたいと思います。まだ途中なので評価する段階じゃないんですけど、面白いです。いわゆる王道「4文字アニメ」なんですが、そこには怪しい「アグネスへの言い訳」が。

 これを見る視聴者はどんな人たちなんでしょう?決めつけてかかるのは危険ですよね、大きなお兄さん達ばかりが見ているとは限りません、AT-Xとはいえ夕方からの再放送もあるようなので。しかし、年端も行かぬ少女の下着姿を見たいという需要がこのアニメに働いていることはほとんど疑いなく、それを愛でる視線に応える演出が随所に見られることも否定しがたいものがあります。

 どうしてここまで慎重かというと、「子どもの性」についてパブリックな場で語るのには慎重にならないと、という意識があるからです。というのも、本来慎重になるべき「子どもの性」を堂々と公共の電波に乗せてお届けしているのがこのアニメだというと、「お前はそういう目でこれを見てるのね。」という反論があり得る。この類の「描き手の視点のイノセントさ」を盾にするのがこういうアニメの常套手段なのですが、だからといって視聴者のうちの大きなお兄さん達の100%が、鼻息も荒くいろんなところからよだれを垂らしながらテレビにかじりついて見ているかというとそんなわけはありません。つまり、見る人によってどうしてこのアニメを面白いと思うかは安易に一般化できません。『はなまる幼稚園』なんて、もう何で見ているのか何でこんな時間にやっているのか、無限に自問しながら見ています(え?見ていますよ?)。

 この種のアニメが「性的」かどうか議論する時の論点は、描き手と受け手双方の視点です。つまり「性」はその視点の中心なのか、あるいは含まれているのか、全然別のところにあるのか。たとえば、『クレヨンしんちゃん』は良くて『はなまる幼稚園』はだめだ、という議論が成立する気がしていますが、その際このふたつを分ける要因は、おそらく原作の掲載誌と放送時間帯以外にないのではないでしょうか。つまり子どもが見てないところで子どもが中心に描かれるのは不健全だということになりそうです。個々の視点が性的なものかを客観的に判断するのは難しいけれど、大人達が深夜アニメという密室で子どもをじろじろ見るのは不健全だというわけです。その議論の先には成人したら他人の子どもを「見てはいけない」社会があります。そこまでの極端さになれば異常であると安心していえますが、いずれにせよどこかで恣意的な境界が設定されるわけです。

 もうひとつ。実際の子どもが性的に搾取される被害にあっている以上、それを模倣するような描写は許されないのだ、という主張があります。もっともです。この点では作り手や見る側が性的な意図を持っているかではなく、単純に作品の表現自体を問題とするので、第三者が客観的に判断することが出来ます。しかしそこにも本来あいまいなものへの恣意的な線引きがあることは否定できません。

 以上で、子どもの性を描くことに対する批判や抑圧には次のふたつの禁止が確認できます。それは、
・子どもを性的な目で見てはいけない。
・性的な意図か否かに関わらず、子どもが被害に遭っている性犯罪を模倣してはいけない。
というものです。

 ひとつ目の禁止に対する制作側の戦術が「イノセントさ」です。つまり、「私達は全く性的な動機なんて持ってません、だってただの子どもでしょう?」という言い訳です。見る側が仮に性的な描写であると感じたとしても、それは「ただの子ども」に性的な印象を感じた見る側が悪いのであって、作る側は関知しない、と。この言説の裏には小児性愛は病気だという通念があります。要するに、これ見てエロいと思うやつは病気なんだから、病人に一人一人気をつかう道理はない。カレーライスをエロいと思うやつが一人でもいたらテレビじゃカレーは映せないのか、というわけです。そして実際は、作る側も見る側も十分に性的だという認識を持っていたりするので(すべてがとはいいません)、その意味でこれは「戦術」であり「言い訳」です。

 この戦術は、それぞれの作品を見ていくと大部分が破綻しているように見えます。この種のアニメはしばしば自主規制をします。地上波の放送になるとお風呂シーンの湯気が濃くなる、とかですね。(『はなまる幼稚園』はもちろん『ちゅーぶら!!』にもおそらく無いんじゃないかと思いますが。ただ『ちゅーぶら!!』は地上波では放送されないでしょう。)これはうっかりチャンネルを合わせてしまった人が不快に思う事への配慮でしょうか。それともそういう人が作品を問題視して制作側の立場が危うくなる事への予防線でしょうか。だとすると、制作者は少なくともその作品、そのシーンを性的なものだと感じる「病気ではない」人がいる事を認識していることになります。また、冗談交じりに語られるのが、BDやDVDの売り上げを伸ばすための差別化だという話で、もしこれが本当なら制作サイドはまさに子どもの性を売り物にしていることになります。ここまで見てくると、「描き手のイノセントさ」は怪しいものだといわざるを得ません。加えて、この戦術は2番目の「子どもが被害に遭っている性犯罪を模倣してはいけない」という禁止を免れるものではありません。

 そこで『ちゅーぶら!!』です。議論の前提として、この作品が大人向けである事について補強しておきましょう。

・毎週月曜23:30〜放送。
・原作は「女子中学生×下着=ちょっぴりHなガールズ・コメディ」(双葉社HPより)
・「かわいいキャラたちと丁寧に描かれた下着を、お楽しみください!!」(同上)
・初回限定生産版BD&DVDはスリーブケース仕様、
   映像特典:「ちゅーぶら!!」キャストによるビデオコメンタリー(ひいろ監督&茅原美里)
   ノンクレジットOP・ED収録
   封入特典:12pブックレット、「ちゅーぶら!!」特製“素敵な下着ステッカー”
(参考:アニメ『ちゅーぶら!!』公式web

これで十分だよね。

 簡単なあらすじ。下着大好きっこの中学1年生、葉山奈由が、下着の魅力や下着に気をつかうことの大切さを同級生や学校の人々に啓蒙するべく、「下着部」を作ってその活動をアピールしていこうとがんばるのですが、まず部活を作るために大苦戦。厳格な先生の反対や、同級生の女子からの冷たい視線と男子からの熱い視線に耐えながら、まずは数人の仲間と理解ある顧問の先生とともに下着同好会を結成。その一生懸命な活動に徐々に周囲の理解も広がっていき、さてさてこれからどうなる事やら、とりあえず夏休みは合宿で海で水着でヤッホイ!←今ここ。

 この作品は上に書いたような子どもの性をめぐる議論を物語に内部化します。主人公の奈由は典型的に「イノセントな」キャラクターです。彼女は純粋に下着を愛していて、その思いを周りと共有するために下着部設立を目指します。しかし彼女の行動に対して、周囲の人は「不健全だ」あるいは「エロい」などと反発します。この抑圧といろいろな立場から戦う(差別する側の人間である水野先生や小町君がそれに気付いてゆくことも含めて)けなげな主人公達の姿がこの作品のストーリー上のキモですが、これは同時にイノセントな(あるいはそれを装う)制作者とそれを抑圧しようとする人々の構図と相似形をなします。

 しかし下着同好会の部員達はイノセントであることを言い訳に批判を脇にそらしていくわけではありません。部員の一人である天原さんは異常に(本当に異常に)セクシーに描かれ、かつ「女の下着は男に見せるため」などと公言してはばからないキャラですし、小町君は下着部唯一の男子部員の決意として、「これからも下着をエロい目で見る!」と宣言します。つまりこのアニメは中学1年生の少女の下着姿に対して、「子どものパンツなんてエロくもなんともないよね、だからアニメにしてもオッケーだよね」といういつもの言い訳を放棄しています。

 このような好戦的な戦略をとるアニメなら過去にもありました。『こどものじかん』が記憶に新しいです。(とここでググって知った。『ちゅーぶら!!』と『こどものじかん』は掲載誌が同じです。)ここで用いられるのはやはり小児性愛=病気の通念で、今度は子どもをあからさまにエロく描いてみせることで、その断定的な構図を揺るがす戦術です。つまり、「子どもがエロいっていうと病気だっていうけどこれでもエロくないの?エロいよね?じゃああなたも病気なの?ほんとは子どもだってエロいんじゃないの?」ということです。しかしこの戦術は、やはり2番目の「実際の被害児童への搾取、暴力の模倣となる描写はダメ!」という批判を免れることは出来ません。

 では、『ちゅーぶら!!』の戦術とはなんでしょうか。そのキーとなるのは主人公奈由の特殊な家庭環境です。彼女は下着デザイナーの義理の兄と二人暮らし。互いの親が再婚した後この世を去るという、この笑うしかないエロゲ設定を補って余りあるのが、こちらもおそらく他界している祖母の「ヨーコさん」です。ヨーコさんもかつて下着デザイナーだった人で、凛々しい容姿で妙にカッコイイ。奈由の両親が他界した際に、「これがあなたを守るから」と奈由に下着を送ったことが奈由の下着好きの原体験として描かれます。そして義理の兄圭吾さんも下着のモニターという理由で奈由に様々な下着を送ります。パンツとブラでつながる親族関係。これは何を意味するでしょうか。

 そして、この「ヨーコさん」。おそらく、というか明らかに、このヨーコさんです。下着デザイナー鴨井羊子は日本の女性が西洋の下着を着けるようになる過程の文化史を語る上で、1932年の白木屋火災と並ぶ重要人物です。それと同時に、というかその功績によって、彼女は日本の女性の地位向上に貢献した人物とされています。この点については、日本随一のフェミニストである上野千鶴子 『スカートの下の劇場』のなかで、日本における「下着革命」のパイオニアとして繰り返し言及しています。あわせて彼女自身の著書も、戦後60s、70sの日本におけるウーマンリブを象徴するようなエッセイとなっています。それまで真っ白しか無かった(考えられなかった)女性の下着に色と柄をつけ、下着でおしゃれをするという行為を一般的にしたのが彼女なのです。その過程では『ちゅーぶら!!』の中で奈由が直面するような周囲の無理解との戦いがあったようです。

 つまり、ヨーコさんはおしゃれな下着を着ること、つまり女性が下着を語ること、さらにいえば女性が自分の性について語ることをタブーから解放した人物です。そしてその孫という設定の奈由は、学校という子どもの社会の中で、まさにおばあちゃんと同じ事を成し遂げようとするのです。これは面白い構図です。奈由はまさに学校の中でタブーとされている子どもの性をウーマンリブと同じ構図で「解放」しようとしているのですから。物語の中で奈由達に対する反発は、彼女たちが率先して自分の性を語ることに対する、違和感や拒絶や禁止といったものでした。その反応が「性」に対するものであることは、反発する先生や生徒の反応から逆説的にわかります。さらに下着部の顧問である水野先生が下着部の生徒達との交流を通して、あこがれる圭吾さんを振り向かせるための「女子力」に気付いていく過程も、わざわざ「大人の性」との対比を見せることで、奈由達の活動が「性的である」こと、さらにそのことがこの作品の主軸として描かれていることを示しています。

 奈由達の活動に正当性はあるでしょうか。つまり、子どもの性は解放されるべきでしょうか。この点に答えを出そうとするとき、それは今までに見てきた子どもの性にかかる問題と同じように、子どもの性についての非常に多様な要素について恣意的な判断を下すことにならざるを得ないでしょう。たとえば「子どもの性を一切語ってはいけない」とするとき、そもそも「子ども」とは何歳から何歳までの人を指すのでしょうか、あるいは年齢以外の要素も考える必要があるのでしょうか?単純に年齢のみを基準とするとしても、それは20歳でしょうか、18歳でしょうか。おそらく現在の社会的な状況を見ればどんなに低く見てもそれが15歳を下回ることはないように思われます。しかし私達が小学校や中学校の保健体育で習ったように、多くの人はそれよりもさらに低い年齢で身体的、精神的な性に目覚めるのです。『ちゅーぶら!!』で描かれる奈由達の姿は、まさに性のアイデンティティーに目覚めたばかりの年齢の「子ども」にありがちなとまどいや誤解や苦悩を映し出しています。子どもの性がタブーとされたとき、この「性に目覚めた子ども達」は自分の性について語ることを社会的に禁止されることになります。社会的にはまだ子どもとされる彼ら(彼女ら)は、同時に「子ども=性的でない」ものとされるからです。この、本当はもう性的な自分を認識しているのに、それを社会の中で発言することを禁止された人々の状態、つまり彼ら(彼女ら)のアイデンティティーが「ちゅーぶらりん」になった状態、は果たして健全といえるでしょうか。

 ここでこの問題にはっきりと結論を出し、子どもの性についての「恣意的な線引き」の提案を行おうとは思いません。ただ、この作品においては、まだうまいつきあい方がわからない自分の「性」を、ごまかしたり抑圧したりせずに、しっかりと向き合おうとする奈由達の姿を描くことを通して、さらにはその姿が奈由のおばあちゃん、そのモティーフである鴨井羊子の活動と呼応することによって、子ども達自身が自分の性と向き合う事によって得られる成長こそ、大人は支援するべきだという主張を読み取ることが出来ます。

 ここまで、「物語の中」で語られる子どもの性のタブーについて見たわけですが、それをふまえて「物語の外」にある子どもの性をめぐる制度について見るとどうでしょうか。そこでこれまで問題にしてきた2つの禁止は、上記の議論を通してみると、その両者がともに子どもの性をタブーとして語ることを許さないための禁止であったということがわかります。ただし今度は、当の子ども達ではなく大人達にその禁止が向けられています。子どもの性に対する圧力が日に日に強まる中で、漫画やアニメの制作者がその当事者になりつつある事は周知の事実です。『ちゅーぶら!!』とそこに描かれたメッセージは、制作者からのそれに対する回答といえるでしょう。

 子どもを性的な暴力から守るというとき、暴力をふるうのが大人なら、守るのも大人です。性的な暴力に限らずとも、(大人の)社会の中で大人達は、暴力から子ども達を守っていく義務があるでしょう。その点で子どもは女性とは違うということもできます。しかし、女性による活動がそうであったように、子ども達を守る究極の目的は子ども達の将来にわたる権利や自由を保証していくためであるはずです。この目的のために現在の子ども達の権利や自由を、特に大切にすべき子ども達の人格に関わる点において制限しては本末転倒です。子どもの性をめぐる制度は、それを解放していく方向と同じくらい、規制していく方向への転換も慎重に議論されなくてはいけないのです。

 最後に。この作品のメッセージも、冒頭に見たように、この作品に「年端も行かぬ少女の下着姿を見たいという需要」が働いているとすれば、単なる「言い訳」に過ぎません。しかし、これは少しは「まともな言い訳」です。『ちゅーぶら!!』は自信を持って「来いよアグネス」と主張しているのです。