「ゲンロン憲法」読んでみた

素人が暇に任せて憲法について考えてみた

 日本国憲法がこのままではしょうもない勢い任せで変わってしまうといううっすらとした不安を背景に、どんな憲法になったらいいのか考えてみたくなった。

 思考の土台として、『日本2.0 思想地図β vol.3』(ゲンロン、2012)所収の「新日本国憲法ゲンロン草案」(以下「ゲンロン憲法」)を用いた。これを参照した理由としては、現行憲法にとらわれることなく現代にふさわしい憲法のあり方を示したものとして興味深いこと、また基本的な理念と多くの各論において共感を覚えたこと、および、現在の国政での議論の方向性とは別のベクトルを示す改正案として重要だと考えたことによる。

 「新日本国憲法ゲンロン草案」については、下記から全文を参照できる。

genron.blogos.com

 なお、『日本2.0 思想地図β vol.3』には改正案についてのコメンタール・原作者による討議記録が付されており、各条文の意図の理解には欠かせないものとなっているため、適宜書籍も参考にされたい。なお、条数は特記がない限り「ゲンロン憲法」のもの、ページ数は『日本2.0 思想地図β vol.3』に準じている。

「ゲンロン憲法」の概要

 この改憲草案は「フローとしての日本とストックとしての日本の両立」を謳い(p104)、前文に「法治主義、平和主義、繁栄主義、開放主義」の4つを宣言する(p194)。そして、この理念に従って統治機構の大胆な変更が提案される。変更には、天皇の地位の規定の見直し、首相公選制の導入、各議院の役割の変更とそれに伴う外国人参政権の導入などが含まれる。

 全体に通底する「フローとストック」の理念の表れとして、国政に参加する者を「国民」と「住民」に分けるという概念が導入される。「国民(=ストック)」は「日本国籍を有する者」、「住民(=フロー)」は「法律で定める期間、日本国土に適法に継続的に居住する者」と規定される(16-17条)。住民には日本国籍を持たない者が含まれるが、国民と同様の権利が憲法によって保障される(71条ほか)。

 ほか、大きな変更点を書き出す。

  • 天皇) 天皇は「日本国の伝統と文化の継承者」(1条2項)とされ、象徴としての位置付けが強化される。
  • (行政) 直接選挙によって選ばれた「総理」を行政の最終責任者(10条)として大きな権限を付与する。これにより、総理は「統治権の行使において、国会より優越」する(p146)。議会との関係はアメリカの大統領制に近づく。
  • (立法) 二院制は維持するものの、両院の差が明確な「住民院」と「国民院」に再編される。
  • (立法) 国民から選ばれる「住民院」は、「日本住民を代表すべ」きとされ(42条1項)、住民として認められた外国人への選挙権の付与が想定される。被選挙権は「成人たる日本国民」。「国民院」に対して大きく優越する。
  • (立法) 「国民院」は、総理、住民院、官僚機構の監視役としての有識者集団となることが想定され、(驚くべきことに)少なくとも憲法上は世界中の誰もが議員になる可能性を持つ議会である。被選挙権の要件は「法律によって定め」るとされている(42条2項)。こちらは国民による選挙によって選出される(同)。
  • (現行憲法9条) 平和主義と戦争放棄という現行憲法の理念を維持する(前文、18条)一方、自衛隊の位置付けを憲法に明記する(20条)。自衛隊は国民および住民の「自然災害と人的災害に対して(中略)自衛ならびに相互援助する権利」(19条)を達するため設立されるとされ(20条1項)る一方、「国際相互援助の精神に則り(中略)国外においても活動しうる」(同2項)とされる。
  • 地方自治) 現在の市町村に相当する「基礎自治体」を憲法で定める。国民と住民が統治の運営を委託する(23条)行政主体として規定され、ボトムアップ型による地方自治が期待され、道州制の導入を含めた国から地方への権限委譲が想定されている。
  • (人権) 基本的人権は「国民および住民に与えられる」(71条)。また、「国際人権規約に定める人権の享有を妨げられない」(同)とされる。死刑廃止や公務員の労働三権付与などが想定されていると考えられる(コメンタールに具体的な言及はない)。人権の規定が納められる「第二部」については、権利の追加は出来るが削除できない(99条1-2項)。

 なお、実際には変更は全体にわたっており、憲法の変更において「大きな」「重要な」といった重み付けは意味がないとも思われるので、本エントリにおいて論点を絞るものと理解されたい。

想定される論点

 これからも日本が繁栄を続けるため、国際社会に開かれた国を目指すことが強く打ち出されている。日本から世界へ、世界から日本へ、人の相互の出入りを活発にするために導入される「フローとストック」の概念は、新規性がありながら説得力がある。

 また、現行憲法が70年間改正されなかった主因である「9条問題」の解決について、現実に即しながら、実効性をもって平和主義の理念を憲法に残すことに挑んでいる。平和主義・戦争放棄を再定義し未来に投射する白田秀彰によるコメンタールは感動的ですらあり(p152-154)、現行憲法9条に対する21世紀からの回答としてぜひ多くの人に読まれるべきである。

 だが実際には、変更の範囲が憲法のほぼ全体にわたり、国の統治機構に加わる変更が非常に大きいことから、もしこれがそのまま改正案として国民に投げかけられれば、全方位から激しい批判にさらされることは想像に難くない。ここでは、ひとりの国民として、もし「ゲンロン憲法」が国民投票にかけられたら困ってしまう(総論は賛成なのに不安が残る)点について書いていきたい。

 

1.国民院と住民院の仕組み

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 二院制の見直しについては、考え方が新しすぎる上、基本的にわかりやすい条文のつくりが意図されていると思われる「ゲンロン憲法」において、数少ない複雑な変更点を持つ。また、外国人参政権をおそらく世界でも例を見ないレベルで認める内容は争点となりやすく、「よくわからないけど危なそう」という印象は理念を訴える点で不利に働きやすいだろう。

 上図はp169より引用した、国会の仕組みを説明する図である。わかりにくくしているのは、この図に示される「国民と住民のたすきがけ」(p195)の仕組みである。住民院は「住民を代表する(選挙権)ものだが、国民から選ばれる(被選挙権)」。住民院にいるのは、住民ではなくて国民になる。「国民」と「住民」という分離がそもそもまったく新しい概念な上、さらにその相互の選挙権と被選挙権が交わっている。

 さらに、である。国民院はこの逆で、「国民を代表する(選挙権)ものだが、住民から選ばれる(被選挙権)」ことになるかと思いきや、違うのだ。国民院の被選挙権は在日外国人を含む「住民」よりさらに広く、法律の条件を満たす世界中の人に与えられる。海外に居住する外国人が海外在住のまま職務に就くことすら想定されており、具体的には退任後のオバマプーチンなどといった外国の首脳の名前が可能性としてあげられている(p172)。

 これは境真良自身が言うように「ラディカルでアグレッシブ」(p171)だ、あまりに。国民院を官僚機構と渡り合い、総理と住民院の監視機能を果たす有識者集団にすることを企図したものだということだが、多くの有権者はそこまでたどり着かないだろう。

2.「総理」と「住民院」の優越=ストックの優越?

 「フローとストック」の概念の導入の目的は、日本の継続的な繁栄のために、「ヒトとカネとモノの奔流がかつてない速度で国境を越える時代」(p104)に適合した制度を作ることにあった。これは「フロー」をいわば優遇することによって、外国人の出入りだけでなく、経済活動全体の活性化を要請する主旨のものだろう。

 従ってこの主旨において、例えば税制として、フローへの課税(所得税法人税など)を下げ、ストックへの課税(相続税や固定資産税など)を強化するなどの施策が考えられる。こういった政策をとって行くにあたり、「国民」からなる総理と住民院が、国民院に対して強い優越を持つことにより、「国民(=ストック)」が既得権の保守に走り、日本全体の成長を阻害する方向に舵を取る可能性はないだろうか。

 また、この延長線として、「住民」という新たな階級が導入されたことによって、逆に「国民」が権利の保守・拡張に走った結果、「国民」の対象者が限定されていく、いわば貴族になってしまう(例えば少数民族を疎外していく、といった)懸念があるのではないか。これを防ぐために憲法に国民の要件をある程度定める必要があるのではないだろうか。

3.自衛隊の国外活動

 18-20条は現行憲法9条に当たり、おそらくもっとも注目度の高い部分になる。

 19条で「国民および住民は(中略)自衛ならびに相互援助する権利を有する」とされている。これは普通に読めば、国民および住民同士の相互援助を認めたものと読める。そして20条1項では、この権利の目的を達するため自衛隊を設立するとされている。

 しかし、20条2項は「国際相互援助の精神に則り(中略)国外においても活動しうる」とされ、自衛隊の国外活動を認めている。これは集団的自衛権を認める条文とも読めるが、18条〜20条1項との関連が不明瞭である。19条の「相互援助」が世界各国との相互援助も指すのであろうか。そうでないならば、住民は在日外国人も含むので、利害関係がある国で有事があった際に、日本が介入したいが為に実質的に有事とはまったく関係がない当該国の国籍を持つ「日本住民」が根拠にされるというような、新たな「解釈改憲」の余地を残す。これでは近年における現行9条の二の舞である。

4.基礎自治体の運用

 地方自治の理念が現行憲法・法にないという問題意識から、23-27条が新たに作られたという(p157-159)。主体的な地方自治を目指す理念は重要である。一方で、この条文を机上の空論にしないためには、もう少し具体的な地方自治のあり方の規定が必要ではないだろうか。

 もちろん、ボトムアップ型の地方自治という理念の実現において、国が事細かに内容を定めては本末転倒である。しかし、現在の地方行政、まして市町村議会の統治能力に現実的にどれだけ期待して良いのかという不安がある。会見場で泣き叫ぶ県議会議員は極端な例だと信じたいが、これまでの国民の地方議会への関心の低さもあいまって、レベルが相当に低い自治体がかなりの数あることが想定されるのではないか。

 憲法改正後、実際の運用で無理をきたし、結局なにも変わらなかったということでは残念すぎる。大阪都構想などの例をみるまでもなく、地方自治改革の社会的要請は強く、実効性のある改正が求められる。条文に入れるかはともかく、なにかガイドラインが必要となるのは間違いない。

5.国際人権規約

 71条で基本的人権は「国際人権規約に定める人権」と限定されている。これは、「国際人権規約が国際的に承認されている人権の一覧であり、普遍的な内容を備えているから」(p185)とされる。基本的人権の根拠を憲法の外に求める事の是非はおいておくとして、依拠する国際人権規約が将来にわたって普遍的な人権の一覧であり続けるかどうかは検討の余地があるのではないだろうか。

 国際秩序が流動化する昨今、米中間の新冷戦やEUの崩壊などが現実的な懸念となっている。その中で、国際人権規約の母体である国連の権威が将来にわたって、世界中の国にとって、信頼に足るものであるかは不透明ではないだろうか。基本的人権は国民(および住民)が主体的に獲得した権利として、憲法の内に根拠を求めるのが本来の形ではないかと思う。

6.国家による自由

 この改憲案への批判として、「社会権」の認識が不十分との指摘を見つけた。

「新日本国憲法ゲンロン草案」はオママゴトのように感じる - murrielzブログ

 「国民および住民から国家へ与える制約である憲法」(p188)という立憲主義の性格を押し出す意図が、現行憲法24条にあたる条文を削除することへの説明に用いられている(現行24条は「婚姻および両性の平等」。削除は婚姻平等に道を開くことになる)。たしかに、この反面として、国家によって積極的に認められる人権(教育を受ける権利、労働基本権など)についての条文が弱くなっているといえる(85-86条)。これは地方自治の拡大などと合わせて、国家の役割を縮小する目的で意図されているものとも思われるが、全体として人権に重きを置いた内容になっているのであるから、主旨を変えずに改善を施す余地があるかもしれない。

 

 まずは以上としたい。

 このほか情報技術の導入や、プライバシーの権利の追加の論理など、見るべきところは多い。通読すれば誰もがどこかに引っかかりそうに思う。上記の指摘の内容にまったく専門性がないこと、また修正の提案がないことはご容赦いただきたい。憲法はすべての国民が理解できるものでなくてはいけないと東浩紀は繰り返し主張している。素人の意見として見ていただければと思う。

最後に

 上記は、この改憲案が全体もしくは各部として法的な強度を持ち合わせているかといった、もっとも重要と思われる点について判断する能力を持ち合わせないため、素人の感想の域を出ないものであることは残念だが承知している。

 ただ、憲法改正の議論が国会で続いており、今年中にも改正案が発議されるかもしれない。国会での議論は、現行憲法および様々な点で問題が多いとされる自民党草案以外に議論の土台がなく、各党がそれに乗って賛同/批判をする各論先行型で実に心許ない。異なる方向性を示す役割が期待される民進党は、改憲案を示さないばかりか、憲法改正の議論を避けているようにさえみえる。議論を忌避することによる護憲という段階から一歩踏み出し、建設的な憲法改正の議論の中で、変える/変えないことの正当性を議論していかなければ、議論が尽くされないまま重大な問題を抱えた改正案が国民投票という博打に賭けられる事態も十分に考えられる。

 国政での議論がこのような状況にあって、どれほど意味があるかは別として、なにか自分の考えを示したいという考えに至った。「素人の議論」が盛り上がることによって、憲法改正に多様な方向性があることに気付く人が増え、結果として改正の議論に拡がりが出て行けば、それは悪いことではない。本エントリはその一端になれればと思う。

沈黙

ネタバレ注意

 

原作小説を昔読んで以来トラウマで、怖いもの見たさから見に行った。

拷問シーンは期待していた恐れていたよりはマイルドで、そこまでダメージはなかった。

 

内容よりもまず、長い!3時間近くあって、めちゃくちゃトイレに行きたくて、最後の方「早く転んでしまえ」と心の中で唱えながら見ていた。

日本にはキリスト教が根付く風土がない、っていうのが強調されるんだけど、原作もこんな感じだったっけ?

引っ越してきました。

もう少し人目につくところでやりたいと思い、blogger から移ってきました。

よろしくお願いします。

Wake Up, Girls! 青葉の記録

1/21 13:00〜 @AiiA 2.5 Theater Tokyo

 チケットが思いの外とれなくて焦ったけど、何とか一般席でとれた(特典付きのプレミアムシートを狙ってた)。最後列でマジかよ、って思ったけど、ライブに比べればハコがずっと小さいのでそれでもだいぶ近く感じた。

 演出は結構ガバガバで、音響も照明もなんだかなあ、って思うところがあったりした。以前見たももクロの舞台と比べちゃうと、やっぱり平板な舞台に見えてしまう。でも、そんな演出の中、あと他の共演者もたくさんいる中で、WUGの7人の頑張りが見えて、とても好感を覚えた。

 基本的に最初の劇場版のストーリーを繰り返す形で進んでいく。パンチラとか、「あなたたち処女?」とか、露骨なシーンはカットされて、いろんな意味でつるんとした演出になっているなという印象。衣装も原作を再現してて、2.5次元って感じ。かやたんの私服衣装がかわいかった。

 劇中で新曲の「ゆき模様 恋のもよう」を歌うシーンはミュージカルっぽい演出ですごくよかった。そこからもう少し盛り上がりがあるとよかった。

 シーンの前半でWUGメンバーが夜の公園で語り合うシーン。背景の夜景の映像が東京になってるんだけど、これはシンプルに演出ミスだと思う。あの場面で象徴的にも彼女達の背景に東京の夜景が描き出されるというのはありえない。東京のI-1に対して、ピラミッドの下部としてではなく、オルタナティブとしてWUGが仙台で立ち上がるわけで、これはWUGの物語全体の根幹に関わる部分だと思うんだけど。

 ライブパートも合わせてたっぷり2時間。劇中にもライブシーンがちりばめられてて、知ってるストーリーの繰り返しだけど、退屈はしなかった。山下さんの表現力・芝居が(意外にw)よかったと思う。やっぱりいろんな仕事で磨いているのが表れているかなと思った。

ライブで歌ったBeyond the Bottom がやっぱりすごくよくて染みた、、、これもヤマカンが関わってればもう少し違ったのかなあ、とかやっぱり考えちゃう。

2017年

2016年は、自分にとって苦しい年だった。仕事がうまくいかなかったせいで、創作の方も実質的になにも出来なかった。

12月のはじめから仕事を休むことになった。多分2月ぐらいまでなんだけれど、仕事についてから初めてのことだし、普通に今の会社で働き続ければこんなに休みを取れることはこれから仕事をし終えるまでない。なにかしないと、今できないことは一生できない気がする。

というわけで、希有なはじまり方をした2017年。ひさしぶりにちゃんとやりたいことを書いておきたいと思う。
  •  『双子姉妹』の続刊を出す。
  • なにか小説・脚本の応募する。
  •  貯めてた本を仕事を休んでる間に消化する。
  • 楽しい1年にする。
  • これからの生き方について、ちゃんと考え、みんなと話す。
今年は自分にとっても、とても大事な1年になる気がします。

RENT 20周年記念ツアー 来日公演

12/24 15:00 @東京国際フォーラムホールC

念願のブロードウェイキャスト版。

とにかくよかった。

これまで、映画と日本語版舞台を見たけれど一番歌詞の意味が入ってきた。
サントラは死ぬほど聴いているけれど、歌の意味がようやくわかった、っていうシーンがいくつもあった。
見慣れたシーンにも新鮮な発見があって、「オリジナル版」だからこそ、既存の演出から自由になれるというのが見て取れる。やっぱりブロードウェイで見なくちゃいけないんだなと思った。
完成されたクオリティの中で、小劇場感を失わない舞台美術も生き生きとして見えた。
エンジェルとモーリーンがこれまで見たどのRENTよりも美人だった。
I'll cover youのリプライズは抑制がきいた演技だったけれど、それでも涙がこぼれてきた。

いっしょに観た友人はある意味この作品は古典になったというようなことをいっていたけれど、
たしかに、RENTはミュージカルとしてのクオリティからすれば、十分に古典となる強度を持った作品だ。
けれど、90年代のニューヨークの影の部分を描いたこの作品が、今日本で見ても魅力を失わない理由のひとつは、
この作品が「今でも」「私たちにとっての」アクチュアリティを維持しているからなのは間違いない。
素晴らしい音楽の一曲一曲が、普遍的・古典的なテーマから時代性の強いメッセージまで、力強い色彩のグラデーションを描き出す。
その波が、切実に観客に迫ってくるからこその感動を私たちは感じることが出来る、そして、その波を、私たちはまだ、感じなくてはいけない。
貧困は最近の日本でまさにクローズアップされているし、セクシュアリティジェンダーについてもようやく表立って議論されるようになってきたところだ。
RENTの同時代性を乗り越えて、この作品が本当に古典となる日はやってくるだろうか。

クリスマスイブの夜、丸の内でイルミネーションを歩きながら、
こんな日にミュージカルなんか見て、なんか矛盾を感じないではないのだけれど、
すごく幸せな気分に浸りながら、ぐるぐるといろんなことを考えました。

ラ・ボエーム



11/26 14:00〜 @新国立劇場 オペラパレス

RENTの下敷きとなったオペラと言うことで興味を持った。
というわけで、お勉強のつもりだったのであまり面白さは期待してなかったんだけど、
ひさしぶりにオペラを見たらその歌声に圧倒されちゃって感動した。
特にロドルフォ役のジャンルーカ・テッラノーヴァさんがすごかった。
ハートを掴んでくる歌声だった。

RENTとの比較としては、
結末がほぼ同じだったことが意外だった。そう考えると最後ミミが生き返るっていうのは、
本歌取りだから、ってことで一応説明がついてることになる。
RENTの終わり方は不思議な感じがしてたので納得した。
エンジェルはいなかった。モーリーンに当たるムゼッタっていう奔放な女の人が出て来るけど、
RENTはエンジェルを導入したことでモーリーンの位置付けが明確になることを考えると、
ここがRENTの作劇のポイントだったんだなあと感じる。